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宮沢賢治と寄居 VOL.2

約100年前に賢治が寄居を訪れていたことは、前回の「宮沢賢治と寄居VOL.1」で記述したとおりです。しかし、賢治は、別な角度からも寄居とつながっていたのではと推測されています。

宮沢賢治と浅草オペラ

やはり今から約100年前の1917年(大正6年)10月、浅草六区での出来事です。日本館という劇場で、佐々紅華作のオペレッタ『カフェーの夜』が上演されました。当時の帝国劇場で上演された本格的な西洋オペラ興行が不振の中、わずか十銭という安い木戸銭に当時の若者が熱狂したのでした。帝大や早稲田の学生、軍人や兵隊に職人、さらには、オペラ女優にあこがれる多くの女性たちも。劇場につめかけた観衆は引けもとらず、浅草六区からひょうたん池まで長蛇の列ができたということです。そんな中の一人に宮沢賢治もいたのです。
そうした彼らは「ペラゴロ」と呼ばれていました。ペラゴロの中には、川端康成、谷崎潤一郎、サトウハチロウもいました。昭和59年2月4日、東京ヤクルトホールで催された宮沢賢治没後50年記念の集いである「賢治へのいざない」の中で、関係者から宮沢賢治がペラゴロの一人であったことが明らかにされています。1918年(大正7)の暮れ以来、(宮沢賢治は)上京のたびに浅草オペラに通っていたのだそうです。その後、郷里に帰り、大正13年5月、花巻農学校の生徒を引率して修学旅行の道すがら、函館の海を前にしてはるかなる浅草オペラをしのんで、「函館港春夜光景」という詩の中に次のように唄っています。

(前略)夜空にふるふビオロンと銅鑼、
    サミセンにもつれる笛や、
    繰りかへす螺のスケルツォ
    あはれマドロス田谷力三は、
    ひとりセビラの床屋を唱ひ、
    高田正夫はその一党と、
    紙の服着てタンゴを踊る(後略)

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当時、関東大震災ですでに浅草オペラは壊滅していていましたが、幻想の中に去来する賢治の浅草オペラへの思いは、なんと純粋で、憧れに満ちていたことでしょう。賢治は花巻農学校教師時代に、コミックオペレット「飢餓陣営」、「植物医師」、「ポランの広場」、「種山ヶ原の夜」など、自ら脚本を書き、演出をして、農学校の生徒たちと演じていました。いかに賢治が浅草オペラに影響を受けていたか推察されるところでもあります。たとえば「飢餓陣営」の「バナナン大将」は浅草オペラの「ブン大将」との類似点を見ることができます。

宮沢賢治と佐々紅華

ところで、寄居町ゆかりの佐々紅華は、『大正15年7月の下旬から10月の末まで「浅草オペラ東北・北海道巡業」をしています。仙台、八戸、盛岡、青森、函館、旭川、小樽、秋田、大曲、郡山等、延べ18箇所、77日間の興行だった。』(注3)その佐々紅華はその後、作曲家、プロデューサーとして頭角をあらわし、「祇園小唄」、「君恋し」などを作曲しています。1931年(昭和6)、妻いゑさんの実家のある寄居町玉淀に自らの設計で「京亭」を建て、亡くなる1961年(昭和36)の冬まで余生を楽しんでいました。享年74歳。その年の暮れ、フランク永井が歌ったリバイバル曲「君恋し」で第3回レコード大賞を受賞したのでした。

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現在の京亭

もしかしたら、東北の盛り場の劇場で、もしかしたら、函館の劇場のかたすみで、フロックコートの襟を立てボーラーハットをひざの上において、佐々紅華率いる浅草オペラ劇団の舞台を賢治が観ていたとしたらどうでしょうか。宮沢賢治が寄居を訪れて、105年が経過しました。宮沢賢治と寄居。もっとつながってもよいのではないでしょうか。

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寄居町立図書館では、宮沢賢治に関する書籍約600冊を所蔵し、『宮沢賢治コレクション』として特設コーナーを設けています。この機会に、賢治の作品に触れてみてはいかがでしょうか。現在は、電子図書館としてもご利用いただけます。

※文中の行程等には諸説あります。一部推測を含みます。
参考文献/荻原昌好著『宮澤賢治「修羅」への旅』、井戸川眞則著『石ッコ賢さん 宮沢賢治と寄居』
協力/岩手県花巻市、国立大学法人岩手大学


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